会長インタビュー

タクシンエンジニアをつくった男
 会長インタビュー 

うちの会社はエンジニアリング
ではなく「エンジニア」

代表取締役会長
竹内 伸治
Shinji Takeuchi

小樽市出身74 歳。親に負担をかけたくないという理由から15 歳の時から職業訓練校に入学。
学びながらお小遣いも稼いで残業手当をもらうために夜まで働いた。
実家の石屋を継がず、「これからは電気だ!」という思いを胸に、電気工事士の資格を取る。

【これまでの成果】
・都庁の警備管理
・東京オリンピック出入監視システム

株式会社タクシンエンジニアの本社は丘珠空港にほど近く、
そのせいか札幌の中でも特に空が広く感じる。
モダンな作りの社屋は階段で上った先の2階がオフィス入り口。
防犯設備の会社だけあってもちろん、セキュリティは万全だ。

朝、出社したらその日に向かう現場の準備。
腰に商売道具を下げ、作業着を着て颯爽と現場へ向かう。
夕方、一日の仕事をやり終え、車から降りてくる彼らの顔は達成感がありとても明るい。

『今日の現場はどうだった、あそこの現場はああだった。』と
会話を交わす社員同士がとにかく明るくていい。
若い人が多い会社だな。
最初にタクシンエンジニアを訪問した時にまずそう思った。

人手不足に頭を悩ませる業界の中にあっても、40年続くこの会社の活気は衰えを見せない。
都庁の防犯設備や東京2020オリンピックのセキュリティなど
北海道に拠点がありつつも官公庁からの信頼も厚く全国を股にかける。
札幌・東京・名古屋の三社を、一代で築き上げたのはいったいどんな人物なのか。

株式会社タクシンエンジニアを作った男、竹内伸治。
その過去から今までを深掘りしていく。

小樽で過ごした幼少期

竹内の祖父は福井県の大野石を扱う石屋だった。
江戸時代中期から明治30年代にかけて、西日本と北海道の貿易に不可欠だった北前船が小樽に向かう際に船を安定させるための重石を積んできた。
小樽運河に並ぶ石造りの倉庫群はこの北前船交易で財を成した人々によって造られた。
ニッカウヰスキーの門は竹内の祖父と父が作ったというから面白い。

8人兄弟の下から2番目に生まれた伸治は、兄弟とは年が離れていたのでどちらかというと近所の友達と過ごす時間の方が長かった。
やんちゃで負けず嫌いな性格であったが、集団生活の中で気遣いも培われた。

竹内の父が40 歳くらいの時はまだ借家を40 軒くらい所有するほどだったが、時代は変化し、石屋で生計を保つのも厳しくなってくる。
同じくオイルショックのあおりを受け、いい暮らしもそう長くは続かなかった。

15 歳の時に、親に負担をかけたくないという理由から職業訓練校に入学をする。
訓練校では学びながら署外実習で残業手当を目当てに夜まで働いた。
働いてお小遣いを稼げる事が何しろ楽しかったという。
実家の石屋を継がず「これからは電気だ!」という思いを胸に、在学中に電気工事士の資格を取った。

実習先の会社の仕事は卒業してからも続けていた。
そうしているうちに実習先の人が独立をする際に声を掛けられその下請けをはじめたのだが、
自分で会社を経営した方が割がいいと考え、1974年自ら竹内電設工事を立ち上げた。
竹内伸治25歳の時だった。

初めての仕事は新設ビルの高圧受電装置の組み換え作業。
これをなんとたった一人で1 ヵ月という期間で終わらせたという。

一流と付き合えば、一流の仕事を呼ぶ

独立から4年後の1982年、29歳の時に現在の東区に会社を移転。拓伸電業株式会社を開業する。

この社名は当時懇意にしてくれた人物で大手企業の仕事を受け持っていた、ある会社の社長が名付けたものだ。

仕事に実直な竹内の周りには彼を心から慕う人間も多い。これまでの人生、竹内はそんな人たちにピンチを助けられても来た。

「一流と付き合えば、一流の人たちに繋がっていく。その繋がりが一流の仕事を呼んでくる。」というその人の教えの言葉のとおり
その後も自然と数々のご縁に恵まれて
のちに大手セキュリティ会社の北海道進出の際に提携を結ぶ事になる。

人のやらないことをする

強電の会社でありながら、弱電工事をも扱うことを拒まなかったのも会社成長の要因の一つ。

その頃、国による教育の助成が活発になり、東京では学校建設が進められていた。
竹内はこの150校あまりの中の50校を受け持つことになる。

強電の技術で得た知識と技術を駆使し、丁寧な配線をほかの会社の3倍のスピードで進めたうえ
夜間作業を嫌がらずに働いたおかげで次々仕事を進めていけた。
冬場に仕事がなくなる北海道では当たり前のことだと考えていたが
それが本州の人間には大変好評だった。

北海道から東京へ出張工事に来て、工事を終わらせた慰労会の席で「帰るな」とスカウトされ、
一週間経たずに呼び戻されてしまう。

そんなことから1987年に東京支店を、その後取引先からの熱望を受け
名古屋にも営業所を構える事になる。

厚い信頼と技術、知識と経験を備え
1991年、株式会社タクシンエンジニアとして新たに歩みだすことになる。
最近で手掛けた大きな仕事は、東京オリンピック2020の宿舎や競技場にまで及ぶ。

ロボットでもできない仕事。
そこに人の手があるからいい。

『タクシンエンジニア』という社名。
通常ならエンジニアリング、とするところだが、ここにも竹内のこだわりがある。

例えば警備を担当した施設で警報機が作動しなかったとしたら次からの仕事がこなくなる。
だから現場がすごく大事なのだ。と竹内は考える。

施工後の検査は絶対に手を抜かない。
下請けに頼んだ仕事でも最後の検査は北から南まで絶対に現場に行く。

技術屋の塊の会社。
『仕事は人で動かしているのだ』ということを忘れてはいけない。

小さなことから大きなことまでトータルでまかなう会社を

これからはAI技術が進めば進むほど仕事が簡略化されていくのは間違いない。
仕事を一社がいかにしてトータルで受け持つことができるかが必要になってくる。と竹内は考える。

今の状態に満足しない。常に先を見据えるのが竹内流だ。

若い人は技術と経験を養え

これからの人に伝えたいことはなにかーーー
という質問に少々意外な答えが返ってきた。

『資格を重要視してほしい。
自分の会社での将来の立ち位置を目標に立てておくとよい。

若い時は技術力がどれだけあっても、人を使っていく気配りがなかったら結局現場で終わってしまう。
年齢がかさんでくると技術はあれど仕事量が減るが人を指導できるようになっていれば慌てることはない。

これからの時代、70歳まで働かないとならない。
体がもたなくなったら終わり。
若いうちから技術と経験を養ってほしい。』

社員としてかかわった縁を、親とも思える目線で見守っている。

ばかになる

俺の余生は俺の生きざま。と語る竹内の瞳の奥にはこれだけの組織を維持してきた責任と覚悟が伺える。

お客様からの信頼を変わらず持ち続けていき従業員とその家族を食べさせていく責任を果たし続けるには並大抵の努力ではないだろう。

そんな竹内の趣味が神輿担ぎ。
年に20〜 30 回は各地に担ぎに行っているという。

神輿の魅力とは・・・

『担いでいるその時には ばかになれる』

というその言葉通り、神輿の上に載って仰ぐことが日頃の重圧から解放されて仲間たちと全力で楽しむことができる唯一の時間なのかもしれない。

そしてそれは二人の息子にしっかりと受け継がれている。

株式会社タクシンエンジニア会長、1948年、小樽市生まれ。
15歳の時から職業訓練校で学びながら電気工事士の資格を取り、署外学習で働く術を身につける。
1974年竹内電設工業を設立。
1982年組織変更。
北海道知事建設業(電気工事業・消防施設工事業)取得。
1987年東京支店設立。1997年名古屋営業所設立。
1991年社名を株式会社タクシンエンジニアに変更。
会長に就任。